横浜院長のひとりごと

横浜院長のひとりごと No.413 仏の教えとASD

横浜院長の柏です。先週は夏休みをいただきましたが、猫が来てから外泊できなくなっている(^_^;妻、受験生の息子を家に残し、一人で伊豆山中に籠もってたまった仕事をこなして参りました。今週からは診療復帰とあわせて年に一度の大学集中講義もはじまり、一気に忙しくなります。まだまだ暑いですが、なんとか元気にこなしたいと思っております。

さて、最近私は、住職さんの法話を聞くなど、仏教に触れる機会を作っております。患者さんにはいろいろな宗教、宗派の方もいらっしゃいますので、精神科医として私は、特定の宗教に肩入れすることなくやっていくことを信条としてきました。そのため、私の実家は浄土真宗ですし、幼稚園はキリスト教でしたが、家族揃って今どきの家らしく無宗教で過ごしてまいりました。まあしかし、今更ではありますが精神科医として知見を広げ、自分の人生についても考える機会にしようと、最近ぼちぼちとそういう機会を作っているわけです(他宗教を排除することはまったくありませんのでご安心下さい)。

そんな中から、先日、四法印について法話を聞く機会があったので、そこで自閉スペクトラム症(ASD)の視点も交えて私が考えたことをお話しましょう。四法印とは、仏教の一番基本となる、万物に普遍的な教義であり、①諸行無常②一切行苦③諸法無我④涅槃寂静の4つから成ります。

①諸行無常:これは平家物語の冒頭に出てきますのでご存じの方は多いですよね。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」これです。「むじょう」でも「ああ無情」の無情ではなく、無「常」と書くところがミソですね。世の中では同じことはなく、常に移り変わっていく。永遠に変わらないものは存在しない、という教えです。鴨長明の方丈記の冒頭は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」こちらも無常を言い表していますね。これは仏教の見出した世の中の真理の一つというわけです。医学の立場で見れば、人間の細胞はどんどん入れ替わっていきますので、数ヶ月もすれば同じ人であってもその細胞はその多くが入れ替わってしまっていて、さてはて同じ人間と言えるのか?という哲学的な問いもあったりします。万物は移ろいゆく…しかし、現実の世の中では、そうした変化を好む人もいれば好まない人もいます。例によって話が大きくなりますが(^_^;;、原始狩猟民族は獲物を追って住む場所を次々と変え、状況に合わせて柔軟な生活体制の変化を取り入れます。一方、農耕民族は耕作地に定住し、毎年季節に合わせて同じ耕作パターンを繰り返します。原始狩猟民族の末裔たる、と私が考えているADHDの方々は、ワンパターンの生活には飽きてしまい、変化に富んだワクワクした生活を求めます。定型発達者は基本農耕民族と考えられ、構造化された環境を好みますが、ASDではそれがさらに強化され、変化に対して強い抵抗を示します(過去ブログNo.279「ハンターとファーマー」もご参照下さい)。諸行無常は仏教の教える普遍の真理ですが、多数派たる定型発達には厳しく(まあ簡単であれば教えにならないわけですが)、さらにASDの方にはなかなか酷なことを求めているのかも知れませんね。

あとに続く言葉についても、ASDの本質を考えるとなかなかしんどさが伺えます。といいますのは、ASD者は本質的に他者視線を持つことが困難で、自分から見た世界がすべての世界として認識されるところがあります。他者との関係性における相対的な自己ではなく、絶対的な自己(自我)=世界そのもの、という自他の区別すら必要ない世界が、本来の彼らの住む世界と考えられます(過去ブログNo.216, No.339, No.340あたりを参照下さい)。

②一切行苦:「一切皆苦」とも言われるようです。ここでの「苦」とは、「自分の思いどおりにならないこと」を指しているとのことで、一切行苦とは、すべてのことは自分が思うようにはならない、という意味になります。自分だけの世界に住み、周囲へのコントロール感を持つことを重視する(こだわり)ASDにおいては、そもそものあり方が問われる事態となりえると考えられます。

③諸法無我:諸法とは、すべてのものという意味。すべてのものに「我」がない…すなわち、すべての存在は常一の実体を持たない=他との関係性において成り立っている…われわれは相対的な存在である…ということです。私一人の世界では「私」は必要ないことを示しているとのことで、本質的に私一人の世界を志向するASDとは立場が異なります。

④涅槃寂静:これら①②③の智慧を自覚しながら生きていくことこそが、悟りの世界(涅槃)の安らぎの境地に立つことである、という教え。私のような煩悩だらけの定型発達者(?)には厳しいところですが、①②③で述べたとおり、ASD特性を持つ人にはなかなか高い峰のように感じられますね。釈迦は定型発達者だったのか?ASDが悟りを開くとどのような教えが生まれるのか?いろいろ妄想してしまいますね。

以上、法話を聞きながら私が妄想していた煩悩話でした。決してASDの方々の認知を否定するものではなく、世の中の見方にはいろいろなものがあるだろうという話でしたので、そこは誤解なきようお願いいたしますね。

では今日の一曲ですが、グリーグのピアノ協奏曲にしましょう。子供の頃、ピアノの最初の下降旋律に震えましたね。ノルウェーの作曲家ならではの澄み切った透明感が魅力のこの曲ですが、なんと、かの巨匠アルトゥール・ルビンシュタインのカラー動画を見つけたのでご紹介します。私はルビンシュタインよりホロヴィッツ派ですが、これはさすがの演奏ですね。アンドレ・プレヴィンの指揮するロンドン交響楽団との演奏でどうぞ。ではまた。

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