横浜院長のひとりごと

横浜院長のひとりごと No.267 生活臨床まとめ


結局運動のためにはポケモンGOよりingressだな、と再認識しはじめた横浜院長の柏です。で、いよいよ今週からアニメ版ingressが始まります!水曜深夜24:55(木曜0:55ね)からなので、よい子のみんなにはあまりオススメできない時間帯だけど、ビデオに録ってぜひ見てね(ビデオに録る、ってもしかして死語?)。エンライテンドに栄光あれ。
夏は毎度のことですが(もう夏じゃないか…)、夏休みその他で脱線が多くなってしまいますね。本題、生活臨床に戻り、今日は一気にまとめまで行きましょう。前回(No.264)までに、能動型の方々に対する働きかけまでお話しました。統合失調症の方々の場合、その認知障害がもとで日常生活、職業生活などでのつまずきがどうしても多くなります。そしてそのつまずきが大きなものになると、病状増悪、再発・再燃となってしまいます。そうなるとそこからの回復に相当な時間とエネルギーが必要となってしまうことから、いかにつまずかないか、つまずかせないか…そこが生活臨床の目指すところです。能動型の方の場合、その動きが大きい分リスクも高く、そのリスク回避、あるいはリスクをとった場合の再発再燃の可能性を最小限にすること…それが働きかけの基本スタンスでした。では、受動型の方の場合はどうでしょうか。能動型の方の場合と異なり、受動型の方はなかなか自分から具体的な行動を起こすところに困難があります。家族や周囲、医療や福祉がある程度のリーダーシップをとって働きかけを行う必要があります。働きかけとしては、基本的には課題達成の支援を行っていくことになりますが、困難が予想されたり発生した際には早めに課題の中止を指示し、それでも困難が続く場合には生活の場を変更する、ということをこちらからも積極的に働きかけるのが基本となります。
さて、危機介入にも生活臨床なりの原則があります。それは、(1)具体的に(2)断定的に(3)くりかえし(4)タイムリーに(5)余計なことは言わず…に働きかける、というものです。患者さんが嵐の中にいる場合、医師は灯台のようにいつも同じ場所にいて、きちんと正しい方向を指し示すこと。言葉を操る治療者として、いつでも肝に銘じておくべき言葉だと思っています。なかなか「余計なことは言わずに」というのを守るのが実は大変だったりするのですが…。
生活臨床が発展を見せた1960年代は、一方で学園紛争が花開き、精神科領域では、反精神医学の風が吹いていた時代でもあります(東大精神科は、学園紛争の火元の一つでもあります)。反精神医学の主張とは、精神病というものは存在せず、問題は社会にあり、その社会に適合できない者に精神病のレッテルを貼ったり入院させたりするとは何事か、というものでした。患者を特性にあわせて働きかけをしていく生活臨床は、彼らから見ると「管理している」ということになり、格好のターゲットとなりました。しかし、困って来院されている方々に、ただ社会が悪いと言っても彼らは救われません。薬物療法にせよ、生活臨床も含めた精神療法的アプローチにせよ、効果ある治療法はきちんとなされるべきでしょう(実際、反精神医学を謳う医師の病院では、全開放ではあるが実は抗精神病薬がてんこもり、といった実態を私も見知っています)。その後、時代とともに反精神医学の運動は消退して行きますが、その後もアンチ精神医学的なムーブメントはちらほらと見られます。私達としては、精神医学を過信することなく、しかしそうしたエビデンスに乏しい動きにはきちんと対応していかなくてはなりません。先日でしたが、他院で抗うつ薬を勧められたうつ病患者さんがセカンドオピニオンを求めて来院されました。明らかなうつ病で抗うつ薬を含めた十分な治療が必要な方でしたが、同伴の親御さんが抗うつ薬について、ネットでは〇〇の危険があり…とおっしゃり、いくら医学的な説明をしても全く聞いていただけず、結局何らお力になれませんでした。No.204でもご紹介しましたが、ネットであってもいかに信頼のおける情報にたどり着けるか…ネットリタラシーが命を救うこともあることを痛感しております。そういえばNo.241でもご紹介した子宮頸がんワクチンのこと、ノーベル賞の本庶佑先生も繰り返し必要性を述べられています。これも、リタラシーの大切さを教えてくれますね。
ちょっともやもやする話になりましたので、今日の一曲は景気づけに久々のワーグナーとしましょう。歌劇「ローエングリン」から第3幕への前奏曲、ロリン・マゼール指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの、なぜか平壌…ライブ…らしいです…ではまた。

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