横浜院長のひとりごと

横浜院長のひとりごと No.331 星のかけら

横浜院長の柏です。今週はワタクシ、夏休みをいただいております(クリニックは通常通り診療しております)。といってもコロナ禍のもとどこも行かず、久々に毎日ゴロゴロ、実に人間的な(^_^;生活です。
今日は、7月後半に立て続けにあった3つの出来事について書くことにします。少々重いテーマになりますのでご了解ください。休み前から書いているのですが、なかなか筆が進みにくく今日になりました。
先々週以来、診察室では老若男女を問わず、ある話題で持ち切りでした。さよなら、ファルコン。7月18日、俳優、三浦春馬氏の逝去の知らせです。今をときめく著名人のこのような知らせは、皆のこころを大きく揺さぶります。私がまだ大学生の頃、トップアイドルが突然世を去る事件があり、若者を中心に大きな影響がありました。その後、メディアの報道のあり方についてはガイドラインも定められたのですが、現状はそこを逸脱するものがあるように感じられ大変遺憾に思っております。つらい気持ちになってしまった方へのメッセージはNo.137に書かせていただきました。今一度、心してお読みいただければと思います。
そして次に飛び込んできたのが7月23日、ALS患者さんの自殺幇助のニュースでした。実際にはとても自殺幇助とは言えない経緯での事件となりそうですが、ALSのような「治らない病気」において自死を認めるか、というのは古来議論が繰り返されてきました。私の考えでは、医師というのは患者さんを助けるのがその仕事であり、死を援助するということは原理的にありえません。ドクター・キリコは医師ではないのです。精神科・心療内科の場合でももちろんこれは同じです。私は、基本的に精神疾患は「治る病気」だと考えています。治る、という意味についてはNo.142からNo.156に至るスレッドでお話してありますのでご一読いただければと思います。ただ、この「治る」プロセスには時間が必要です(「時薬」についてはNo.019, No.287もご覧ください)。そして、この治るプロセスの途中には、大変しんどい場面もありえます。症状が燃え上がり、抑うつ気分に押しつぶされそうになったり、迫害的な幻聴に追い回されたりする…そんな時、どうしてもそこから逃げてしまいたい、と思う気持ちはよくわかります。しかし、症状には必ず「波」があります。波のピークは大変つらいところですが、波がひけば楽になります。そこの、一番つらい波のピークをなんとかやり過ごすことが大事なポイントであり、治療者も一番神経を使うところです。苦しみを緩和する治療(これも一種の「緩和医療」でしょう)。一時的に鎮静系の薬剤を使うこと、必要に応じて入院環境での治療に切り替えることもあります。大きな波をくぐり抜けた後、あの時生きていてよかった、そうおっしゃる患者さんの声を何度も聞いています!波に嵐にのまれず、静かにやり過ごす知恵と勇気を持っていただきたいと切に願います。
そして3つ目。7月24日にBS1で放送された「最後の授業」、今回の講師はAPU学長の出口治明氏でした。APUとは立命館アジア太平洋大学のことで、大分県別府市にあり学生も教官も半分が外国籍という、以前ご紹介したOISTとともに私が注目する大学の一つです(あ、OISTは大学院ですが)。出口学長は、現代日本の誇る知の巨人の一人でしょう。著作もたくさん読ませていただきました。圧倒的な読書量と旅行体験、そしてユニークなその経歴をもとに現代社会における本質をしっかりと見つめている方です。この授業もその面目躍如たるところでしたが、最後に学生さんたちの質問を受けるコーナーで「それ」は起こりました。ある学生さんが、出口学長の死生観について質問したのです。出口学長はにこにこ笑って、「私たちは星のかけらからやってきて、また星のかけらに戻るだけ。だからワクワクしますね」みたいなことをおっしゃったわけです。うーん、さすが人生の達人は違います。万物流転、輪廻転生。生命とは何か、というところを突き抜けたこの回答には、私は考えさせられました。
このようにいろいろなことが続き、私なりに考えたことは
「死は怖れるものではなく、畏れるものである」
ということです。畏れるとは、怖れる(恐れる)と同じ「恐ろしいと思う、心配する」という意味でも使われますが、本質は「能力の及ばないものをおそれ敬う」という意味となります(参考:大辞林)。われわれ精神科医は、死にたくてたまらないという患者さんと向き合うこともあれば、「死ぬのが怖くて怖くてたまらない」という患者さんと向き合うこともあります。どちらも病気の症状であり、症状が改善すれば死との距離を取れるようになるのですが、嵐の中にいる時、ぜひこの「畏れる」という気持ちを思い出してほしいと思います。畏れるということは、神仏に対するのと同じ。死とは生命体の究極の姿であり、われわれの脳で理解できるものではないのです。崇高なものとして畏れ敬うものであり、安易に近づいてはならないもの。沖縄における御嶽(うたき)の教えるところですね。急がず慌てず、また星のかけらに戻るその日まで、与えられた生を全うするのが私たちの人生というものでしょう。まったりと参りましょう。
では今日の一曲。重たいテーマの時はモーツァルトで。有名なトルコ行進曲付きのピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331。おっと、今回のブログNo.331と同じだ(^_^)。ダニエル・バレンボイムのピアノでどうぞ。ではまた。

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