横浜院長のひとりごと

横浜院長のひとりごと No.210 感情を学ぶ

横浜院長の柏です。ニチアサは特撮タイムのあとはプリキュアはさんで題名のない音楽会。今日は、五嶋龍の最終司会でした。切れ味するどい企画が多くて楽しみにしていたのですが、さすがに多忙な中の司会は大変でしたかね。お疲れ様でした。新しい司会は石丸幹二。半沢直樹の浅野支店長のイメージが強いのですが、オペラ出身、違った楽しみがありそうですね。
さて今日は、前回ご紹介したキュウレンジャーの一人、ナーガ・レイの話を続けます。エエ〜、とため息が聞こえますが(^_^;、もうちょっとお付き合いくださいね。種族全体で「感情」というものを捨てた彼は、キュウレンジャーの仲間たちとの冒険の中で「感情」に興味をもち、それを学んでいます。しかし、その感情がよくわからないため、笑う場面で怒る表情になったり、また逆だったり、なかなかうまくいきません。俳優さんにとっては大変な役どころだと思われますが、実は実際にそうした苦労をされている患者さんたちがいます。一部の自閉スペクトラム症(ASD)の方々です(ASDの方みながそうというわけではありません)。感情、および感情表現というのは、生得のものももちろんありますが、大部分は後天的に人との関係の中で作られてくるものと思われます。赤ちゃんが泣いたり、小さな子どもが好きなことをして笑ったりするのは本能的なところが大きいでしょう。しかし、他者の存在に気づいた子どもは、他者との関係において怒ったり泣いたり、みなで笑いあったりするようになり、喜怒哀楽、多くの感情は他者との関係性に基づいて成立します。ASDの方では、この「他者の存在への気づき」が遅れます。そうした他者を意識しない世界では、認知の仕方も、感情の起こり方も当然異なってきます(異なるシステムの採用)。ここから、「空気が読めない」「感情がわからない」というASDの特性が生じてくるのです。ずっと遅れて、例えば思春期になってはじめて他者の存在をはっきり意識するようになると(それまでももちろん他者の存在を認めてはいるが、他者からみた視点もある、という意識が薄かったりします)、そこからナーガ・レイと同じく感情を見つける旅に出ることになるのです。定型発達者が幼少から自然に行い、長年経験してきたことを思春期以降に、意識的に行う(後天的学習)のですからなかなか大変です。知能の高い方ほど、また早くに気づいた人ほど、より早く感情を見つけることができるようです。周囲の方々はこれを暖かく見守り、手伝ってあげることができるとよいですね。こういう時は笑い、こういう時は悲しむ。あなたには当たり前のことが、近くにいるその方には当たり前ではないかも知れませんよ。
脳は成長とともに変化することから、本来学習に適切な時期があり、気づきが遅れることによってそれを逃してしまうということがASDの本質的な問題なのかもしれません。よく、ASDの方が異国で暮らしているようだ、と例えられることがありますが、このような後天的学習は外国語の学習と通じるものであり、メカニズムからいってもこれは「当たり」なのでしょうね。
今日の一曲は、龍くんが最後に弾いていた、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番にしましょう。この曲は、なんといっても1990年に諏訪内晶子がチャイコフスキー国際コンクールで優勝した際の演奏が印象に残ってますので、それを御覧ください。ではまた。

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