横浜院長のひとりごと

横浜院長のひとりごと No.256 地下要塞

hitorigoto-256a.png横浜院長の柏です。256 = 2の8乗と縁起のいい?回となります。さて、生活臨床のことをお話するにあたっては、私の研修医時代のことを書かなくてはなりません。今日は昔話といたしましょう。私が医師免許を取得し、研修医となったのは1988年(昭和63年)、最後の昭和卒医師となります。そのまま母校の精神医学講座に入局したわれわれ同期5名でしたが、当時まだ精神医学講座は東大紛争の後遺症から、病棟を反精神医学を標榜する方々に占拠された状態が続いていました。そのためわれわれは外来棟地下1階にある精神科外来と、北病棟1階に設置されたデイケアのみで研修を行うことを余儀なくされたのです。 No.038にも書きましたが、三つ子の魂百まで、病棟より外来好きな私の基本的医師像はここで作られました。さてわれわれの活動の場であった精神科外来。古い建物の地下1階、中庭があるとはいえ日中もあまり日が入らず、当時は医師、とくに精神科医師の喫煙率の高さから紫煙でくもった空間…いわば地下要塞で研修生活を過ごしておりました。ここはあくまでも外来スペースですから、通常の医局のような広いスペースはなく、廊下を仕切ったり脳波室を使ったり…そして何よりも、本来なら自室を持たれているはずの偉い先生方もそのへんにいらっしゃるので、いつでも議論ができるという、研修医からするとそれは素晴らしい環境でした。
hitorigoto-256b.pngそして病棟のかわりに研修したのがデイケア。東大ではデイホスピタル(DH)と呼んでいましたが、ここを統括していた宮内勝先生が私の臨床の師匠です。DHでは、研修医は最初は患者さんと一緒にメンバーとして参加します。メンバーとして、洗濯ばさみを作ったり、当時まだ日本デビューしたてのSST(生活技能訓練)を受けたり、一泊旅行で九十九里海岸(だったかな?)や富士急ハイランドに行ったり。後者では、高所恐怖症のワタクシはここだけ「医療班」と称して園内待機していた(あそこ、ホンマに乗れる乗り物ないし)のも懐かしい思い出です。
前置きが長くなりましたが、このDHで、そして地下要塞の外来で宮内先生のご指導を受けたのが生活臨床の考え方でした。次回から詳しくお話していきましょう…でも次回は学会報告かな。今週は神戸での精神神経学会のため留守にいたします。毎度ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。
では今日の一曲。年配の方なら聞き覚えがあるであろう、かつての水曜ロードショーのオープニングテーマ、Friday Night Fantasyです。懐かしいトランペットの響きをどうぞ。ではまた。

コメント

  1. 春日 美和 より:

    柏先生 お疲れさまです。Wワーク中の春日です…ちょっと欲をかいて まるで光源氏のようにあちこち飛び回っていましたが採用時の条件から少しずつ逸脱してきたのでご迷惑を承知でご辞退させていただく事となりました。正直 今回の職場は善き心の人々に恵まれ、長期勤務できそうな淡い期待を持っていましたが…どうやら私には人を見る目がないようで…陰口を言われながら坐骨神経痛を乗り越えるパワーが出ず 心が折れてしまいました。腑甲斐無いです。可能であれば先生のお顔を拝見しながら愚痴りたい気持ちでいっぱいです…

  2. 横浜院長 より:

    春日さん
    こんにちは。大変そうですね…。次回診察でゆっくりお話しましょう。

  3. 天野かえる より:

    初めまして。過去ブログにコメントさせて頂きます。
    母の主治医であった、宮内勝先生の事が、歳を重ねていくうちに気になり
    検索しているうちに、たどり着きました。
    私は今、もう50も過ぎた統合失調症患者です。
    母は、幼い頃からずっと、宮内先生の患者で、私はその付き添いとして、小さい頃から
    地下と言いますか、陰鬱な東大病院の独特な診察室に小学生になる前から
    通っていました。懐かしいです。
    母は、49で亡くなりました。
    私は17の時に、精神分裂病を患い、吉祥寺病院で
    宮内勝先生に主治医として治療を
    はじめていただきました。
    母の病名は、昔から心身症という事で
    今の病名で言ったら、何なのかも分かりませんが
    その遺伝子を継いでか、私も
    精神病院患者として
    青春は、全て消え去ってしまった類いです。
    ただ最近思う事があり
    宮内勝先生が、数年前ネットで調べて
    かなり前に亡くなられていた事を知り
    本当に、人生の無慈悲さや
    奇妙な運命などを思いあぐねる
    そんな50代となりました。
    宮内先生と出会ったのは
    もう、40年以上前になるのですが
    未だに記憶に残る名医だったと。
    宮内先生がいなかったら
    私は今でも吉祥寺病院に
    居続けていたのではないか?
    と、思ってしまいます。
    私は、1988年に精神分裂病になりました。
    主治医の宮内先生のもとで
    20年近く心身症を患う母の娘は
    発病してから、当時は珍しいデイケアに
    通うことになりまして
    3ヶ月で退院措置になりました。
    都会では馴染めないとの
    両親の意見で田舎に移り住み
    逆に苦労して田舎に馴染むことになる事
    もう30年以上ですが
    結婚もしたり、子供が出来たり
    離婚して、結局はシングルマザーに
    なりましたが、子供達も成人したり
    子供の頃から東大病院精神科の
    あの厳格で荘厳な場所を
    思い出したりする今日この頃です。
    どこの池だかは分かりませんが
    必ずアヒルにパンをあげて
    帰りに、よく分かりませんが
    食堂でマンゴーを食べさせてもらい
    ケロッグの小さなコーンフレークと
    わなげ、とかいうお菓子を
    多分、アメリカの物が置いて
    あったのでしょうね?
    あ、輸入品ではないですが
    東京医大精神科に行く日は
    特別な感情と想い出が残ってます。
    田舎に住み移り長いので
    今では、もう、そんな陰鬱で荘厳な
    診察室に行く事は出来ないと思いますが
    うーん、子供達と一緒に、また
    あの東大病院精神科の地下に
    行ってみたいと、、、いや
    単に、池でアヒルにパンを
    あげてみたいとか、思ってしまう
    統合失調症患者です。
    私は未だにコンビニでバイト程度しか
    出来ない人間で、出来損ないの母親ですが
    取り敢えず悪化せずに社会に
    溶け込めております。。。
    この地域で、この年で
    社会に出て、溶け込んでいる
    統合失調症の患者さんは
    あまり見受けられません。
    もっと福祉が進歩する事を
    願っております。